舛添要一は何を間違えたか?
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- 馬鹿な人は、最初の謝り方を間違えたと言った。どんなに上手に謝っても次から次に問題が出て来ては謝りようがなくなるものさ。人前のパフォーマンスで感情をコントロールできると思っているのだろうが、本質を忘れたままではいずれ破綻する。
- 馬鹿な人は、正直に説明しなかったことが間違いだと言った。少年時代のジョージワシントン少年でも毎日桜の木を次々に切っていたら正直者でも少年院に送られる。
- 馬鹿な人は、最初の不信感を与えたことだと言った。エンブレムパクリの佐野おじちゃんのように一度不信感を持たれたら徹底した追及が始まる時代と言う認識が必要とか。舛添要一は学生の翻訳を自分の著作として出版したと言うから、疑うべき種は尽きないほどに持っていた。要するに不信感を持たれるチャンスは常にあった。有名人のリスク(妬み嫉み)の理解には欠けていたかもしれない。
- 舛添要一は反省とか心を入れ替えるとか生まれ変わった気持ちでとか改心の情を訴えていたが、辞任の記者会見をやって都民に言葉を届けようともしないし、正式な辞任挨拶もしない。舛添要一を選んだ都民に直接謝罪しない。都議会の退任挨拶で全て済まそうとしている。何度も口にしていた反省など微塵もない。
- 舛添要一は信義の意味も知らずに使っていたが、そのことが正に彼の本質なのだ。自分の損得が最優先なのだ。舛添要一には取引相手はいくらでもいるが、友人は殆どいない。信義より損得を優先する彼は強いけど孤独だ。孤独な彼を支えるのは悪徳でしかない。
- 舛添要一の悪徳を醸成していったものは、貧しさと才能のギャップから生まれた強烈な飢餓状態だ。精神病の一つだ。例えば、ある種の催眠術を掛けると、いくら水を飲んでも喉の渇きを癒せない状態になる。死ぬまで水を飲み続ける。
- 舛添要一が立志伝の人生の旅を始めた時、悪徳もまた舛添要一の中で成長していった。小学生、中学生、そして高校生時代にははっきりとした意識が芽生えた筈だ。羨ましい存在になること。人から羨ましく思われる存在になること。自分の何かを失い、悪徳に支配された瞬間だ。
- 普通なら悪徳はくじける。無能な人はチャレンジさえ叶わない。舛添要一は悪徳を育てるに十分な才能があったのだ。
- 強烈な悪徳は舛添要一にこれで十分、もう満足だと言って休むことを許さなかった。貪欲に、次から次に獲物を要求するのだ。
- 議会を去る舛添要一の様子を見れば彼はまだ悪徳に支配されたままだと言うことが分かる。
- 舛添要一は何を間違えたか。人を愛すること、愛の大切さ、人間とは何か理解すること、 こころを理解することを諦めてしまったこと。答えは見つからないが分かろうとすることの大切ささえも捨ててしまった。蓄積し強化していっただけの人生だ。人の心に寄り添うことができない化け物になている。悪徳の正体だ。